1950年代の日本映画は、サンフランシスコ平和条約発効によるアメリカからの独立(1952年)とGHQ検閲の終了後、創造性と多様性が復活し、二度目の黄金期を迎えました。五社協定による映画業界の安定と縛り、国内外での成功を収める作品の製作、特に黒澤明の『羅生門』が国際的な評価を得るなど、戦後の復興と共に映画産業が飛躍的に成長しました。松竹、東宝、大映、新東宝、東映、日活といった主要映画会社は、それぞれ特色ある作品群を製作し、映画館来場者数がピークを迎えるなど、映画が国民の重要な娯楽源となった時代でした。
アメリカからの開放(1952)
1952年のサンフランシスコ平和条約の発効により、アメリカによる占領が終結し、日本は主権を回復しました。これに伴い、GHQによる厳格な検閲が解除され、映画製作は再び自由と創造性を取り戻しました。GHQの検閲解除は、それまで禁止されていたり、製作が難しいとされていた社会的テーマや時代劇の製作を可能にしました。この時期には、戦前の日本映画の伝統と戦後の新しい視点が融合し、多様な映画作品が生まれました。国際情勢の変化と国内の復興進行の中で、映画は国民の娯楽と精神的な支えの重要な源泉となりました。
五社協定(1953)
1953年、日本の主要映画会社である松竹、東宝、大映、新東宝、東映の5社は、五社協定を締結しました。この協定の背後には、日活が戦後の映画産業の復興を目指し、他社から監督や俳優を引き抜こうとする試みに対抗する形で結ばれました。名目上は専属監督や俳優の引き抜きを禁止することにより、業界の安定を目指したものでしたが、実際には日活による人材の引き抜きを阻止することが主な目的でした。
翌年、日活が映画製作を再開し、石原裕次郎をはじめとする新人スターを発掘して男性アクション映画で成功を収めると、五社協定の当初の目的は徐々に薄れていきました。日活は1958年に協定に加わり、これを六社協定へと発展させました。しかし、1950年代後半になると、映画業界はテレビの急速な普及という新たな競争相手に直面しました。これに対応するため、協定は映画提供や専属俳優のテレビ出演を制限することで、映画会社の既得権を守ることを目的として再編されました。
その後、新東宝が1961年に経営破綻し、倒産したことで協定は再び五社体制に戻りました。最終的に、1971年に五社協定は自然消滅しました。
二度目の日本映画、黄金期
1930年代に初めての黄金期を迎えた後、1950年代の日本映画は二度目の黄金期として広く認識されています。戦後の復興期を経て、国民の生活が安定し、映画館への来場者数が増加しました。この時期、映画は国民にとって最も身近な娯楽の一つとなり、1958年には映画館の入場者数がピークの1億2745万人に達しました。この黄金期の幕開けとして、1950年に公開された黒澤明監督の『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得し、以降、日本映画は海外の映画祭で高い評価を受けるようになりました。
世界三大国際映画祭とアカデミー賞で受賞作品
1951年
黒澤明監督『羅生門』: ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞、アカデミー賞名誉賞
1952年
溝口健二監督『西鶴一代女』: ヴェネツィア国際映画祭 国際賞
杉山公平 『源氏物語』: カンヌ国際映画祭 撮影賞
1953年
溝口健二監督『雨月物語』: ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞
1954年
黒澤明監督『七人の侍』: ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞
黒澤明監督『生きる』: ベルリン国際映画祭 市政府特別賞
溝口健二監督『山椒大夫』: ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞
衣笠貞之助監督『地獄門』: カンヌ国際映画祭 グランプリ、アカデミー賞名誉賞、衣装デザイン賞
1955年
稲垣浩監督『宮本武蔵』: アカデミー賞名誉賞
関川秀雄監督『ひろしま』: ベルリン国際映画祭 長編映画賞
1956年
市川崑監督『ビルマの竪琴』: ヴェネツィア国際映画祭 サン・ジョルジョ賞
1957年
今村貞雄 『白い山脈』: カンヌ国際映画祭 記録映画賞
1958年
稲垣浩監督『無法松の一生』: ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞
今井正監督『純愛物語』: ベルリン国際映画祭 銀熊賞 (監督賞)
1959年:
黒澤明監督『隠し砦の三悪人』: ベルリン国際映画祭 銀熊賞 (監督賞)、国際映画批評家連盟賞
家城巳代治監督『裸の太陽』: ベルリン国際映画祭 青少年向映画賞(西ベルリン参事会賞)
1950年代の映画会社
松竹
松竹は、家族、メロドラマ、女性主人公を描いた作品を得意とし、小津安二郎や木下恵介などの監督による数々の名作を生み出しました。特に、小津安二郎の『東京物語』(1953)は、後に国際的に高い評価を受けることになります。木下恵介は『カルメン故郷に帰る』(1951)で、日本映画初のカラー作品を制作しました。この時期の松竹映画には、原節子や高峰秀子などの女優が出演し、名脇役として有名な笠智衆も多くの作品で登場し、松竹映画の魅力を引き立てました。
東宝
東宝は、特撮と怪獣映画の先駆けである本多猪四郎監督の『ゴジラ』(1954年)の公開を皮切りに、このジャンルのブームを牽引しました。『ゴジラ』は怪獣映画の金字塔として、後続の特撮・怪獣映画に大きな影響を与えました。同じく1954年には、黒澤明監督の『七人の侍』が公開され、国際的な評価を受けるなど、東宝は幅広いジャンルで成功を収めました。家庭劇やメロドラマにも注力し、成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955年)などの作品が誕生しました。東宝は、特撮・怪獣映画、黒澤明の時代劇、成瀬巳喜男の家庭劇といった多岐にわたるジャンルでの活躍を通じて、1950年代の日本映画界に大きな足跡を残しました。
大映
大映は、社長永田雅一の指導のもと、海外観客を意識した映画製作を積極的に行いました。溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)や『山椒大夫』(1954年)は国際的な評価を受け、ヴェネツィア国際映画祭での受賞を果たしました。特に、『羅生門』(1950年)の国際的成功を受けて制作された衣笠貞之助監督の『地獄門』(1953年)は、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞し、大映の国際的な名声をさらに高めました。大映は京マチ子、若尾文子、山本富士子、といった看板女優や、市川雷蔵、勝新太郎といった日本映画史にその名を刻むスターを多数輩出しました。
新東宝
1952年に公開された『西鶴一代女』(監督・溝口健二)でヴェネツィア国際映画祭を受賞するなどの評価を受けた新東宝でしたが、独立系映画会社であるため大手映画会社に比べ配給網が弱く、製作した映画の劇場での上映機会が少なく、興行収入が期待ほど得られませんでした。社長・大蔵貢は会社の経営再建を目指し、1957年に『明治天皇と日露戦争』(主演・嵐寛寿郎)を製作。明治天皇を題材にしたことで大きな話題を呼び、ヒット作となりました。しかし、その後も経営難を克服できず、1961年に倒産しました。
東映
東映は、1951年に満州映画協会のメンバーを中心とした東横映画が母体となり設立されました。翌年には、年間50本の映画製作を宣言し、量産体制を確立。1953年の『ひめゆりの塔』が大ヒットし、発展時代に突入します。1954年から新作二本立て興行を開始し、東映時代劇ブームが巻き起こりました。1956年には松竹を抜いて配給収入でトップに立ち、この時期に製作された冒険時代劇『新諸国物語 笛吹童子』や『里見八犬伝』、『新諸国物語 紅孔雀』などは、子どもたちから熱狂的に受け入れられました。時代劇では、片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、東千代之介が活躍し、現代劇では、高倉健、中原ひとみなどがデビューしました。
日活
戦時中、製作部門を大映に譲渡し映画製作を一時停止していた日活は、1954年に東京・調布市に新たな撮影所を建設し、映画製作を再開しました。五社協定の圧力下で新人発掘に積極的に取り組み、1956年には石原裕次郎が『太陽の季節』で映画デビューし、『狂った果実』で主役を演じるなど、新進のアクションスターとして人気を博しました。日活はこの時期、若者をターゲットにした男性アクション映画の製作に力を入れ、映画興行も好調を維持。1959年には配給収入で業界2位に躍進し、その地位を確固たるものにしました。
1950年代の日本映画 25選
1950
監督:黒澤明 製作:大映京都撮影所
1951
監督:木下恵介 製作: 松竹大船撮影所
監督:小津安二郎 製作:松竹大船撮影所
監督:成瀬巳喜男 製作:東宝
1952
監督:渋谷実 製作:松竹大船撮影所
監督:溝口健二 製作:児井プロダクション/新東宝
監督:黒澤明 製作:東宝
監督:成瀬巳喜男 製作:大映東京撮影所
1953
監督:溝口健二 製作:大映京都撮影所
監督:衣笠貞之助 製作:大映京都撮影所
監督:小津安二郎 製作:松竹大船撮影所
1954
監督:溝口健二 製作:大映京都撮影所
監督:黒澤明 製作:東宝
監督:木下恵介 製作:松竹大船撮影所
監督:本多猪四郎 製作:東宝
1955
監督:成瀬巳喜男 製作:東宝
監督:内田吐夢 製作:東映京都撮影所
1956
監督:今井正 製作:現代ぷろだくしょん
監督:古川卓巳 製作:日活
監督:中平康 製作:日活
1957
監督:川島雄三 製作:日活
1958
監督:木下恵介 製作:松竹大船撮影所
監督:市川崑 製作:大映京都撮影所
監督:黒澤明 製作:東宝
1959
監督:市川崑 製作:大映東京撮影所