~サイレント映画の時代~
1920年代の日本映画は、日活、大活、松竹、帝国キネマといった本格的な映画会社の創立により、現代映画へと繋がる物語と撮影技術の基礎が築かれた時期でした。この時代は、音声技術がないためサイレント映画が主流であり、映画館では“活動写真弁士”が映画の解説を担って大きな役割を果たしていました。また、映画の芸術性を高めようとする“純映画劇運動”が起こり、それまでほとんど見られなかった“女優”の登場もこの時代の特徴です。しかし1923年(大正12年)、関東大震災が発生し、映画業界は甚大な被害を受けました。
本格的に映画会社が設立し始める
(1919-1920)
國際活映(1919年12月)
創設者・小林喜三郎
小林は國際活映を創設する前、アメリカの超大作映画『イントレランス(D・W グリフィス/1916年)』を日本で興行し、当時では高額の入場料「10円」に設定し、大ヒットさせて得た収入で、1919年に國際活映(通称・国活)を創設させました。
松竹キネマ(1920年2月)
創設者・大谷竹次郎 白井松次郎
「松竹(まつたけ)合名会社」として演劇の興行を手掛けていた松竹は、1920年2月に松竹キネマ合名会社を創設し、映画製作を開始します。当初、映画の製作地として京都・東山の麓を予定しておりましたが、大谷は東京方面で活動することを主張し、6月に東京で蒲田撮影所はオープンしました。
大正活映(1920年4月)
創設者・浅野良三 (関係者 トーマス栗原 谷崎潤一郎 ベンジャミン・ブロドスキー)
海運会社・東洋汽船の社長であった浅野良三が、映画配給業を日本で営んでいたロシア系アメリカ人ベンジャミン・ブロドスキーを支援する流れで拡大し、大正活映(通称・大活)は創設されました。文芸顧問には谷崎潤一郎、撮影所長にトーマス・栗原が参加。
帝国キネマ(1920年5月)
創設者・山川吉太郎
國際活映の小林と1914年~1919年まで「天然色活動写真」という映画会社を経営していた山川吉太郎が、天然色活動写真で使用していた劇場や撮影所などを改組し、帝国キネマとして創設しました。
活動写真弁士の存在
活動写真弁士(以下略:活動弁士)とは?
活動弁士とは、サイレント映画の上映中に、劇場内で映画の物語やキャラクターの心情を観客に解説する職業のことです。活動弁士の起源は1896年に遡り、キネトスコープが神戸で初めて公開された後、大阪の演舞場で興行が行われた際に、上田布袋軒(うえだほていけん)という人物が初めてこの役割を担いました。彼は、キネトスコープという当時日本では未知の装置を観客に紹介する任を果たしました。その後も映写機の解説役を務めたことから、彼は最初の活動弁士とされています。映画文化が大衆に浸透していくにつれ、活動弁士の数は増加し、1920年代のサイレント映画時代には絶大な人気を博しました。
日本で活動弁士が支持された理由
海外では1900年代中頃、映画の内容を説明する活動弁士のような役割が一時的に存在しましたが、数年でその役割は消滅しました。しかし、日本では活動弁士が広く普及し、長く支持されることとなりました。この独自の発展には、歌舞伎、能楽、文楽といった日本の伝統芸能や、落語、講談といった一人話芸が大衆文化に深く根ざしていた背景があります。これらの伝統が、映画という新しい娯楽形態においても活動弁士を自然な存在として受け入れる事ができました。
純映画劇運動 ~“活動写真”から“映画”へ~
帰山敬正の『生の輝き』と『深山の乙女』
活動弁士が映画界で人気を博していた時代、帰山敬正(かえりやまのりまさ)は日本初の映画評論雑誌『キネマレコード』を創刊しました。彼は著書『活動写真劇の創作と撮影法』(1917年)で、アメリカ映画の手法を取り入れ、演劇とは異なる映画独自の「シナリオ」の重要性を説きました。また、歌舞伎の「女形」に代わる「女優」の起用や、活動弁士による解説ではなく「字幕」の使用を推奨しました。この理念に基づき、自ら監督作『生の輝き』と『深山の乙女』という2本の映画を製作、日本映画における「純映画劇運動」を推進しました。
大正活映の『アマチュア倶楽部』(1920)
大正活映は、東洋汽船財閥の浅野良三の資金援助を得て設立され、初期にはアメリカ映画の輸入に注力していました。その後、アメリカで俳優活動をしていたトーマス栗原の加入と、文芸顧問に作家の谷崎潤一郎が就任し、自社による映画製作へと方針を転換しました。1920年に製作された『アマチュア倶楽部』は、大正活映の初作品であり、トーマス栗原が監督を務め、谷崎潤一郎が脚本を提供しました。出演者には、同社が新設した俳優養成所から選ばれた生徒たちが起用されました。トーマス栗原は、アメリカでの経験から学んだ演出技法や編集方法を採用しました。
松竹キネマ研究所の『路上の霊魂』(1921)
演劇興行で実績を積んだ松竹合名会社は、映画製作に乗り出すために、先ずアメリカへと渡りハリウッドの映画産業を視察しました。帰国後、松竹はハリウッドのユニバーサルシティのような映画の撮影都市を参考に、東京・蒲田に撮影所を建設しました。この新しい撮影所は、舞台演劇からの脱却と、映画専門の俳優を育成するための俳優養成所の設立を目的としていました。この努力の成果として、1921年に松竹キネマ研究所が製作した最初の作品『路上の霊魂』(監督:村田実)が誕生しました。
関東大震災が与えた映画業界の影響(1923年9月)
1923年9月1日に発生した関東大震災は、東京と神奈川を中心に甚大な被害をもたらし、死者・行方不明者は推定10万5000人に上りました。この災害により、東京周辺にあった日活(向島撮影所)、松竹(蒲田撮影所)、帝国キネマ(巣鴨撮影所)などの撮影所は壊滅状態に陥りました。これにより、映画業界は東京での活動を継続することが困難となり、多くの映画人が京都や大阪へ移動して映画製作を行うようになりました。
その一方で、震災から1か月後、小石川の映画館「伝通館」が過去の映画作品を上映したところ、予想外の大盛況を収め、入場者数は震災前の5倍に達しました。その後1年間で、全国の映画常設館は前年を上回る数に増加しました。
帰山敬正の純映画劇運動
(1919)
監督:帰山敬正 製作:映画芸術協会
監督:帰山敬正 製作:映画芸術協会
1920年代 日本映画 14選
1920
監督:トーマス栗原 製作:大正活映
1921
監督:村田実 製作:松竹キネマ研究所
1925
監督:村田実 製作:日活京都撮影所第二部
監督:二川文太郎 製作:阪東妻三郎プロダクション
1926
監督:阿部豊 製作:日活新劇部(大将軍撮影所)
監督:衣笠貞之助 製作:新感覚派映画聯盟
1927
監督:伊藤大輔 製作:日活大将軍撮影所
1928
監督:マキノ雅弘 製作:マキノ・プロダクション御室撮影所
監督:衣笠貞之助 製作:衣笠映画連盟/松竹京都撮影所
監督:牛原虚彦 製作:松竹蒲田撮影所
1929
監督:辻吉郎 製作:日活太秦撮影所
監督:内田吐夢 製作:日活太秦撮影所
監督:小津安二郎 製作:松竹蒲田撮影所
監督:溝口健二 製作:日活太秦撮影所